コンスタンティノープル歴史探訪
今回のイスタンブールでの滞在先は、2024年に開業したザ ペニンシュラ イスタンブール。2021年に新たなイスタンブールの玄関口としてオープンしたガラタポートがあるカラキョイ地区に位置し、1930年代というフレンチターキッシュ建築が最も華やいだ時期の歴知的建築物を含む4棟の建物が繋がったユニークなホテルです。
圧巻は何といってもホテルのテラスや窓から見渡せる、金角湾を挟んで眼前に広がる世界遺産イスタンブール歴史地区の大パノラマ。権力闘争や愛憎劇が繰り広げられた豪華絢爛なトプカプ宮殿、その後方にブルーモスクの愛称で親しまれ“世界一美しいモスク”と謳われるスルタン アフメト・ジャーミイのドーム屋根とミナレット(尖塔)、そしてこの都市の異文化共存の象徴となっているアヤソフィア…。
ザ ペニンシュラ イスタンブールは、東と西、ヨーロッパとアジア、キリスト教とイスラム教、古来より世界の境界点として在り続けるエキゾチックな街を一望できる特等席です。
ホテルからさまざまな船が行き交う湾沿いを歩き、金角湾に架かるガラタ橋の上に立ってみると、長い歴史が層のように織り重なったこの都市をぐるりと見渡すことができます。
ヨーロッパ・サイドである世界遺産の旧市街、ランドマークの一つであるガラタ塔のある新市街、そしてボスポラス海峡の向こうにアジア・サイドと、イスタンブールの特徴的な地形を一望することができ、この街の歴史を訪ね歩くスタート地点として最適です。
イスタンブールは二千数百年の歴史を持つ都市であり、かつては“世界の富の3分の2が集まる”と言われた「世界の中心」でした。ローマ帝国が東西に分裂し、千年余り続いた東ローマ帝国はビザンティンともビザンツ帝国とも呼ばれ、その美しさから「都市の女王」と謳われた首都がコンスタンティノープルです。
1453年5月29日、オスマントルコの若きスルタン・メフメト二世の侵攻によってかつてキリスト教世界最大の都市として繁栄を極めたコンスタンティノープルは陥落し、“イスラームの都市”を意味する「イスラムボル」、イスタンブールと名を改めて以降はイスラム世界にとって大変重要な都市として今日に至っています。
今回の滞在では、2つの宗教の重要拠点であり、1600年以上にわたってローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国という3つの帝国の首都となったイスタンブールの街を歩きながら、千年の栄華を誇った帝都コンスタンティノープルの面影を探してみたいと思います。
ガラタ橋を渡って、アガサ・クリスティの小説でも有名なオリエント急行の終着点・シルケジ駅の前を横切り、トプカプ宮殿を囲む緑豊かなギュルハネ公園の側を通り抜けてしばらく進むと、この都市で最も有名なモスク、アヤソフィアが見えてきます。
アヤソフィアほど数奇な歴史と運命を辿った建造物は世界的にも稀でしょう。
アヤソフィアと名を変える以前、ハギアソフィア(聖なる智)と呼ばれた大聖堂は537年ビザンツ帝国の最盛期を築いたユスティニアヌス大帝の命で再建されたもので、1,000年もの間キリスト教世界できわめて重要な聖堂としてありつづけました。この壮大な建築構造は6世紀の技術から考えると奇跡に等しく、ビザンツ建築の最高傑作と称えられました。
モスク等に付随して建てられているミナレットはイスラームの権威の象徴であり、この建築物を守るように周囲に聳える4本のミナレットは1453年のコンスタンティノープル陥落後、「征服の父」メフメト二世の命によりキリスト教の大聖堂であるハギアソフィアがイスラム教のモスクとして改修される際に建てられたものです。その全容を眺めていると、建てられた時代も宗教も異なるはずの聖堂と尖塔が違和感なく調和して見え、不思議な感覚を覚えます。
アジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝として世界中から富が集まるコンスタンティノープルだからこそ、莫大な資金と労力が必要となる精緻で豪奢なモザイク画を代表するビザンティン美術が花開きました。大聖堂がモスクに改修される際にキリスト教のモザイク画のほとんどは漆喰で覆い隠されてしまいましたが、アヤソフィアが無宗教の博物館となった際に漆喰を丁寧に取り除いて隠されていたモザイク画を蘇らせたため、今はその美しいモザイクの一部を目にする事が出来ます。
現在、博物館から再びモスクに回帰したアヤソフィアの一階部分は信者のみに解放されています。一階の祈りの場から天井近くの聖母マリアとキリストのモザイク画は見えないように布で隠されていますが、二階の身廊からその姿を見ることができます。
キリスト教のモザイク画とイスラム教のアラビア文字の装飾がひとつの空間に存在し異文化共存を体現する存在であるアヤソフィアは、今を生きる私たちに多くの事考えさせてくれる場所です。
アヤソフィアの近くには、“地下宮殿”と呼ばれる幽玄な地下空間・巨大貯水池が広がっています。
ビザンツ帝国はギリシア人の国家でしたが、彼らは自分たちをローマ帝国の正統な後継者であるローマ人と称し、偉大なるローマ帝国の末裔であることを誇りとしていました。
水道橋は古代ローマ人の偉業であるインフラの傑作として知られていますが、イスタンブール旧市街にあるヴァレンス水道橋は1500年もの間使われていたローマ帝国時代の水道橋の遺構の一部であり、引かれた水は全長1キロもあったこの水道橋を通って地下の巨大貯水池に溜められていました。
現在の水道橋の下は幹線道路アタテュルク大通りが通り抜け、数多くの車が行き交っています。
明るい地上から暗く、地下貯水池へ続く石の階段を恐る恐る降りていくと、地面の下とは思えないほど巨大な空間に無数の柱が立ち並ぶ“神殿”が広がっていました。貯水槽の総面積は9,800㎡に及び、336本もあるという柱の上部を見ると、ドーリア式やコリント式といった古代ギリシャ建築の特徴を持っていることが分かります。柱の中には、建設のために亡くなった奴隷が流した涙をモチーフにあしらったとされ“常に一本だけ濡れている”と言われる嘆きの柱や、ギリシャ神話の怪物メデューサの頭が石礎となっているものがあります。頭が横向きと逆さの位置になっているのは、正しい向きだと見たものを石に変えてしまうと恐れられたからだとか。
ローマ帝国の末裔を自負したギリシア人、コンスタンティノープルの人々の在り方を感じられるユニークな空間です。
この都市は古来から重要な東西交易の拠点であり、中国の長安からローマを結ぶシルクロードの要所として繁栄し、都市には多くの富が集まりました。そのため常に異民族や異教徒から狙われ危機に晒されていましたが、1000年以上もの間この都市を“難攻不落”、“不滅の都市”として守り続けてきたのが、テオドシウスの三重城壁です。
マルマラ海から黄金門まで伸びる城壁は約7キロに及び、大小の内壁と外壁、水を満たすことのできる堀の三重構造で、その幅は50~60mにもなります。1453年、すでに斜陽の帝国となっていたコンスタンティノープルのわずか数千の兵士と最後のローマ皇帝は、10万を超えるオスマントルコ軍に対しこの城塞から徹底抗戦を行いました。
8mを超えるウルバン砲を用いたオスマントルコによる激しい攻勢のため城壁の多くの部分は損傷しましたが、皇帝の通った黄金門ある七つの塔など、現在でも「陥落不能で鉄壁」と言われた大城壁の雄姿の一部を見ることができます。
現在のトプカプ宮殿やブルーモスクあるスルタンアフメット地区一帯に広がっていたとされる、330年から1081年まで東ローマ帝国歴代皇帝の居所とされたコンスタンティノープル大宮殿はその基礎部分や一部の遺構しか残っていませんが、東ローマ帝国最後の王朝・パレオロゴス王朝の皇帝らが使用した、テオドシウス城塞の北端にあるポルフュロゲネトスの宮殿は13世紀に建てられたビザンツ帝国時代の建築を今に伝える貴重な宮殿遺跡です。現在内部はオスマントルコ時代の美しいタイルのアートや陶器が展示されている博物館となっていました。
宮殿内からは城壁の上に登る事ができ、数多くの船が行き交うマルマラ海と金閣湾に囲まれた旧市街の壮大な景観を楽しむ事ができました。
オスマントルコによって征服された後、ギリシア人とユダヤ人の居住地となったフェネル・バラト地区は金閣湾沿いにあり、色鮮やかな木造建築が立ち並びキリスト教会も多い、旧市街の中心部とは趣が異なる異国情緒豊かで非常に美しいエリアです。花々が飾られているパステルカラーのカラフルな街並みを眺めながら、のんびりとビザンティン教会巡りを楽しんできました。
非常に荘厳でイスタンブールにある教会屈指の美しさを持つブルガリア人のセントステファン教会、急勾配のフェネルの丘の上に建つ「血の教会」とも言われるモンゴルの聖マリア教会と、圧倒的な存在感を放って聳え立つ赤レンガのギリシャ正教高校、そしてモスクとされたハギアソフィアから様々な歴史をたどって引き継がれたコンスタンティノープル総主教座(聖ゲオルギウス教会)もこのエリアにあります。
教会入口のアーチの上に、パレオロゴス朝ビザンツ帝国の紋章が彫刻されているのを見ることができます。ビザンツ帝国の伝統を引き継ぐ存在として、現在まで双頭の鷲の紋章を掲げています。
内部は薄暗く蠟燭の灯りに照らされた非常に厳粛で神聖な空気で満たされており、トルコに生きるギリシア人たちの篤い信仰の精神を感じることができました。
ホテルのあるカラキョイ地区に戻り周囲を散策していると、屋根の上に十字架を見つけました。それは、屋根の上の教会と呼ばれるイスラム教徒の多い地区で信仰を守るキリスト教徒の教会でした。
長く複雑に折り重なった歴史の上で、異なる民族、異なる宗教の人々が共存するイスタンブール。世界の境界点であり続けるこの都市が持つ独特の歴史文化にじっくりと浸ることのできた旅でした。