光に魅了されるロンドラ パレス ベネチア
2024年3月、ベネチアを訪れた。まだ春先であったにもかかわらず、夏のように眩い陽光が紺碧のアドリア海に反射して輝き、汗ばむような陽気だった。日本から着てきた厚手のジャケットを鞄に押し込めると“ベネチアにやってきた”という実感が湧き、心まで軽く浮き立つような高揚感があった。
美しく磨かれたベネチアン クラッシックのマホガニー・ボートに乗り込み、出発。運河には無数のボートが行き交い、活気に満ち溢れていた。タクシーや救急車、パトカーや消防車といったものはこの水の都ではすべてボートで、それぞれ特徴的な色や形をしている。
巧みな操縦士の運転で迷路のように入り組んだ複雑な水路を進んで行くと、やがて大きく視界が開かれ、左手に優雅で荘厳な建物が見えてきた。真っ青な空にくっきりと浮かび上がるようにそびえる鐘楼、威風堂々とした白亜のドゥカーレ宮殿とサンマルコ寺院。ナポレオンが世界でいちばん美しい広場と称した光景を大運河から眺める贅沢な体験に、到着したばかりだというのにすっかり感激してしまった。
ほどなくしてボートはホテルの目の前にある波止場に到着した。ボートでホテルに乗り付けるというのは「ベニスに死す」のアッシェンバッハ教授がベネチア本島を訪れるシーンを彷彿とさせ、自分まで映画の中の人物になったような嬉しい体験だった。
到着したのは現在ベネチア唯一のルレ エ シャトー加盟ホテルであるロンドラ パレス。“パレス”の名が示す通り、その建物は1853年からの歴史を持つ宮殿で、かのチャイコフスキーも愛し、代表作の一つである第四交響曲を書き上げたという物語を持つ由緒あるホテルだ。到着した日はまさにその前日に長い改装を終えたということで、美しく生まれ変わったばかりのパレスに最初に宿泊するという栄誉ある機会を頂いた。
エントランスを通り抜け、最初に驚いたのは館内の清々しい明るさ。ホテルの中は目の前のラグーンが照り返す太陽の輝きを受けて光に溢れており、真っ白の壁と淡いピンク色の装飾が柔らかく上品で居心地の良い空間を生み出している。ベネチア本島は日の光があまり入らず閉塞的で薄暗いホテルが多い印象であったので、ロンドラパレスの風通しが良く明るくて爽やかなロビーやレストランはとても好ましく感じられた。
案内された部屋は非常にベネチアらしい内装でありながら華美すぎず品があり、19世紀のアンティークとピンク色の大理石の機能的なバスルーム等、クラシックでありながらもモダンなスタイルはさすがイタリアというセンスの良さを感じた。しかし何より、部屋が持つ最大の魅力はバルコニーからの景色。絵葉書や絵画のような、息を呑むほどに美しい紺碧のラグーンとサンジョルジオ島の景色を部屋の窓から望むことができるのはこのホテルに滞在した者が味わえる最高の贅沢だ。
本来は5階に美しいルーフトップのテラスを持つ部屋があるのだが、まだ5階部分は改装が完了していないため立ち入る事ができず、断念。大運河を眺めながらプライベートセッティングで食事などが楽しめるという事で、フルオープンを迎えてからの再訪の楽しみができた。
ルレ エ シャトー加盟のホテルでは食事も滞在の大きな目的だ。せっかくなので、目の前の海で穫れた新鮮な魚介を使ったベネチアの名物郷土料理“リゾット ディ ゴ(ハゼのリゾット)”と手長エビのサオールをオーダー。下処理に大変な手間と技術が必要なハゼは、今では調理するレストランが減りなかなか食べることができなくなっているそう。シーフードのパエリアのような見た目と味の派手さはないが、じんわりと口中に広がっていく滋味に富んだ深い味わいで、たいへん美味であった。
毎朝、ロンドラ パレスでは日替わりでホームメイドケーキを頂くことができ、素朴でやさしい甘さのキャロットケーキはカプチーノやエスプレッソとの相性抜群。窓側の席に腰かけて朝の清々しい空気を感じながら行き交うヴァポレットを眺める至福の時間は滞在中の楽しみとなった。
サンマルコ広場まで徒歩5分という好立地であるため、簡単に周囲を散策できることもこのホテルに滞在する利点のひとつ。観光客で賑わうサンマルコ広場を横目にラグーン沿いを散歩しながらホテルから500mのところにある伝説的バー、作家ヘミングウェイやエリザベス女王など世界中の著名人に愛されたHarry’s Barへ。
看板すらない意外なほど控えめな外観、Harry’s Barと書かれたガラス窓がついた細長いドアを開けると、船内を彷彿とさせるマホガニーの空間に、初夏のような日差しを避けて喉を潤している大勢の観光客がいた。彼らが一様に飲んでいるのがこのバーで生まれた名物カクテル「ベリーニ」。白桃のみずみずしく上品な甘さと発泡性ワイン・プロセッコの爽やかな風味が火照った体に染みわたり、格別の味わい。遠方からわざわざ訪れる客が大勢いる中で、滞在先から世界的に名高いバーにふらりと立ち寄れるのは小さな幸せであった。
オーバーツーリズムの代表格ともなっている今のベネチアにあって、日中のサンマルコ広場は満員電車もかくやという混雑ぶりだ。広場まですぐのホテルに滞在していたので、朝と夜は人の少ない広場を堪能することができたことも幸いだった。朝は刻々と変化する空のグラデーションと金色の陽を受けて輝くドュカーレ宮殿、夜には月あかりに照らされるミステリアスなサンマルコ寺院…。この空間を静寂の中で味わうことができるというのは、何物にも替えがたい体験であった。
何度でも再訪したくなる街、ベネチア。世界中が憧れる水の都は一度の滞在では味わえない奥深い歴史と魅力に溢れている。空気がピリッと澄んだ冬、カーニバルの時期にも来てみたい…。後ろ髪を引かれる想いで乗り込んだボートの中で早くも次の再訪を思い描きながら、ベネチアを後にしたのだった。